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バブル 関連ツイート

RT @midoriSW19: バレてる⇒日本の産業競争力を高めたのは戦後構築された製造業モデル。米国の品質管理と勤勉さや細部へのこだわりを重んじる日本の価値観が結合⇒バブル崩壊以降、熟練労働者が減り、生産現場の力が弱まっているにもかかわらず、経営者の多くが問題への対処を現場任…
RT @Sugarless_kid: 赤羽駅前の自社ビルで営業してる地場業者が12年前の証券化バブルわっしょいを当て込んで何を勘違いしたか3億フルレバした中央区のビルが、宮内ジュニア→ゆにまっと→⚪⚪と転がって今は売値7億なんだってさ。俺が赤羽業者にリーマン後に入れた買付3億、…
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バブルバカ日誌8

高校で斡旋された製造業の事務を、私は2年弱で辞めてしまいました。理由は、人事異動により有休が取りづらくなったから。有休取れないと、LIVEに行けなかったんです。昔は週末にLIVEやってくれるような親切なアーティストいなかったので。本当にそれだけの理由で辞めてしまいました。
若かったなあ、あの頃…
特に行くあてもなかったので、医療事務の資格を取るために学校に一ヶ月通いました。そして医療関係に就職しましたが、女の園に耐えられず二ヶ月で退職。その後は幼なじみのおばさんの口利きで、近所の喫茶店でバイトをしました。
衝撃だったのは、この頃大好きなバンドが解散したこと。フリーターなので、時間はこの上なく自由でしたが、お金無いのに東京行くの大変でした。母の援助でなんとか。
母の援助…
正確にいえば、父の生命保険の残りからの援助でした。この頃の母は気前よくお金を使っていました。寂しいんだろうなあと甘くした私が悪かった。この後、母は父が命をかけて残したお金を、五年足らずで使い込んでしまいました。そのお話はまた後で。
喫茶店でサイフォンの魔術師になったものの、やはり正規雇用が恋しくなり、地元の小さな貿易商で働き始めました。
まあ、景気の良い会社で、二十歳そこそこの私のボーナスが額面百万円とか、健康診断は人間ドックとか、社員旅行は海外とか、バブルの残り香がプンプンする会社でした。
ベタに、経理のお局は社長の愛人だったし(笑)
居心地の良い会社でようやく腰を据えた私は、夜遊びに夢中でした。お給料は良い恋人は週末しか会わない母との折り合いが悪くなってきた外に出る要素があり過ぎました。
そして馴染みのスナックで出逢った、四つ上で奥田民生似の人に一目惚れし、私は二股の道に走りました。
そしてこの二股で、私は夫がストーカーだということに、ようやく気付いたのです。

元気ハツラツバブル

私の実家は、貞彦さんの
実家の経済状況と、とてもよく
似ていた。

貞彦さんの実家の食事は、
お茶碗1膳の白米に
佃煮や、硬いなんだか
わからない肉のかけら
だったそう。

たまに、近所からもらえる
里芋で作った、煮っ転がしが
ごちそうのようだった。

私の実家も、そんな感じだった。
お米は農家の祖父から、もらえるので
心おきなく食べられたけど、
おかずは、1人1本の焼き鳥を
だったりする。

それでも、まだ食卓に
1品だけおかずはあった。

そんな生活が続いた後、
バブル崩壊とともに、
父の勤め先が倒産する。

笑っている両親しかしらなかった
兄と私は、家の柱越しに初めて
真顔で話し合っている
両親を見る。

父が見られていることに
気が付くと、いつもの
笑顔で

「気にすんな!お前らには
関係ない事だからな!!」

そういった。
そして本当に翌日から、
別の仕事を始めたけど
その仕事はとても
厳しい仕事で、
お給料は、以前より
さらに少ないものだった。

あるとき兄が
おかずを私に譲るといってくる。
何でだろうと考えると、
兄は両親がおかずを食べていない
ことや、私たちのおかずも、
さらに少なくなっていることに
気がつき、私に食べさそうと
したのだ。

私も、兄に食べてほしくて
断り兄弟で譲り合った。
すると、それを見ていた父が

「じゃぁー、おとーさんが
 たべちゃおー、あ~ん」

と、冗談交じりで
食べるふりをした。
兄と私は、食べられちゃいけないと
笑いながら、おかずを守る。

それが楽しくて、その日から
わたしたち兄弟と父は3人で、
1つのおかずを3等分にして、じゃんけんをしたり、
スゴロクをしてたりして
量の多いおかず争奪戦を繰り返した。

母は、30分以上楽しんでいる
私たちを、味噌をぬった
おにぎりを食べながら、

「バカねぇ」

といいながら笑っていた。
私も兄も、おかずが食べたい
ということ以上に争奪戦が
楽しすぎて、毎日楽しみで
しかたがない。

父が出先で頂いた、
昼食のお弁当に入っている、
から揚げを残して持って
帰ってきたときは、
パーティーのように盛り上がった。
父はとても、疲れているはずなのに
私たちの喜ぶ顔を想像しながら
ニコニコして
持って帰ってきてくれる。

母も争奪戦に入れたらもっと
盛り上がるだろうと、
何度も誘ったけど母は
おかずはいらないといい、
笑いながら眺めていた。

大人になった時、
私の実家は経済的に
かなりの貧乏だったけれど、
それを不幸だと感じさせず
幸せしかない家族の中で
育ててくれた両親に感謝した。

それに、経済的に厳しくなったのは
病気がちだった私の医療費や
入院費、その看病で
母が働けなかったことも理由にある。

そんな話を結婚後、
まだ優しかったころの
貞彦さんに話したことがあった。
貞彦さんは

「私は幼いころ、なぜ
 うちだけが貧乏なのだろうと
 思ったとき、親がバカで金が
 稼げないと、子供が苦労するのだと
 はっきりわかっていました。
 教育方針は尊敬していますが、
 貧乏な家の出身ということを
 私の人生から抹消したいぐらいです。
 二度とあんな飯はくえません」

穏やかな貞彦さんが冷たく、こういう
発言をすることは、いままで
なく、よほど大きなトラウマが
あるのだろうと思い、この
話は終わらせることにした。

あの時を振り返ると
これは、穏やかを演じていた
貞彦さんの隙間からでた
本音だったように思えた。    ※貞彦さんに特定されないようフェイクをいれています。すみません。   新しい項目をつくりました。少し時間がかかりますが、そこに貞彦さんとであった時の経緯を書いたものを移したいと思っています。   ランキングに参加しています。クリックしていただけると嬉しいです。
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